更新日:20061026
独り言001〜010
001/焦り、夢、そして未来?
 実は先先々月46歳の誕生日を迎えた。この年になると嬉しくも何ともない。どちらかといえば焦りと後悔ばかりが募るような。村上春樹流に言えば、世界が終わるわけではないけれど、自分の中で何かが変わって行く、それが40代だろうか。村上春樹は40歳を前にして『ノルウェイの森』を書き上げたのではなかったか。自分は後先のことなど何も気にしない性格なので、気がつけばこの年を迎えていたとしか言いようがない。しかし、…。
 ここから何ができるだろう。何もできないのではないか。だからこそ今の自分にできること、やってみたいことを公開してみたい。それが、このブログのテーマ、ということだ。
 描くこと。メッセージ性やテーマよりもオートマティックな絵画。眼の快楽・悦楽を志向する何も表現しない記号的な絵画。可能な限り毎日、描き、公開しようと予定している。線の痕跡、夢の痕跡、絵画の痕跡。脈絡もなくただ描かれていく快楽的な絵画。デジタル(イラストレーター10)、アナログ(色鉛筆)の両方を。
 書くこと。たどたどしく脈絡もなく、ただただ文体優先で書き連ねられる小説。
 描くこと、書くこと、夢見ること。


002/体調不良
 46歳を過ぎて、最も困るのは意識と肉体の乖離だ。仕事が立て込んで夜も遅くなって、意識は少し眠いし疲れて来たが、まだなんとか頑張れると思うけれど、肉体は疲弊し、目の焦点も合いにくく、動きも緩慢・散漫になってしまう。意識はもう少し頑張れとエールを送るのだけれど、肉体はもう勘弁してくれと白旗を振る。特に46歳を迎えた今年が酷い。昨年は辛いながらもなんとか頑張れたけれど、今年は既に疲労・疲弊・困憊だ。
 10代の頃は、自分の20代なんて想像できなかった。むしろ20歳で自分の人生は終わるのだとばかり思っていた。しかし、自分が20歳を向かえた年の年末、敬愛するジョン・レノンが銃殺され、何かが狂い始めた。20代の自分を想像できなかったのだから、30代も40代もありはしない。なのに今、自分は46歳を向かえて、意識と肉体の乖離に四苦八苦している、それが現状だ。
 定年を迎える団塊の世代の2007年問題も他人事ではない。後回しにしたツケはいつか必ず回って来る。
 ぢゃあ、これから何ができるのか、それを考えねばならないと思うのだけれど。


003/酔いどれ
 最近は仕事で帰宅が遅い。だいたい早くても午後9時過ぎ。だからと言い訳ではないが絵画や小説や文章をいろいろ制作して公開したいのだが、ついつい後回しになってしまう。ま、帰宅して、食事しながらビールや焼酎を飲むからいけないだけれど。だから、前に書いたことを忘れてしまっていることもしばしばだ。年を経るということはさまざまな不具合に見舞われるということだ。肉体的にも精神的にも。そんなことは教わったこともない。実は今も既に酔いが回っていてへべれけ状態。いろいろなことがうまく行かない、滞る、そんな40代は、いったいどうなのか。不幸?


004/鏡
 買い物に出かけて、遠くの鏡に自分の姿が映し出されるのをぼんやりと眺める。青年というより中高年に近い風貌に慄然とする。気持ちは青年でも、客観的には既にじいさんに近いのではなかったか。浅黒い肌、冴えない表情、まったく絶望的だ。これでも高校時代は、小さなファンクラブがあったくらいなのに。老いはいつのまにか忍び寄り人を醜くする。まるで、ドリアン・グレイのようだ。悔いばかりの人生。もし高校時代に戻れるなら、いや、高校時代の自分にメッセージを送れるなら、「そこで、だらだらしてちゃ駄目だ、急げ、頭を使え、もっと心身を鍛えろ」と伝えるだろう。そこを超えろ、それを超えろ、止まるんじゃない。


005/眼鏡とゴスとあおい、他
 眼鏡のネジがきついので直していたら加減が悪くて眼鏡のツルの中心がポキッと折れた。あっけなく。仕方ないので前の眼鏡を引っ張りだしてかける。視力がまた落ちているから機会があったらまた買い直さないと。ただし、乱視が酷いので、どうしてもレンズ代だけで馬鹿にならないのが難点だ。またも痛い出費か。またもの前は何か、記憶は定かではないが。
 図書館でアトリエサード「トーキングヘッズ叢書17ゴシック・テイスト」を借りる。自分の想っていたテイストとかなり違うのが難点だけれど、不思議な本ではある。ぱらぱらと拾い読みを。できれば音楽とゴスをもっと集中して取り上げてほしかったような。
 TV特番「ナースあおいSP・桜川病院最悪の日…」を見る。久しぶりの感動に感謝したい、素晴らしいドラマ。キャスティングも脚本も素晴らしい。相変わらずコブクロとレミオロメンの区別がつかなかったり。そして石原さとみがさりげなくって、清楚でタフで可愛い。彼女がゴスロリだったら、もっと最高だろうと、あり得ない空想をしてみる。ゲストに深キョンを呼んで。それもまた、あり得ない空想。
 ゴスとは暗さへの憧憬だろう。闇への心性。マイナーへの心からの愛情。
 最近ずっと膝が痛い。特に左の膝周り。30歳頃に両膝が痛くなって近所の接骨院に行って診察してもらったら、痩せ過ぎで関節周りにあるクッションの役目をするはずの脂肪が異常に少ないから、痛みが酷くなると言われて、ショックだった。若い頃は痩せていることがある意味でステイタスだったのが、災いとなったのか。何回か通って電気治療とかで小康状態にはなったけれど、最近またぶり返しか。しかし、なぜ左膝だけ。背骨が左に湾曲しているようなのも原因か。いやはや、やれやれ。


006/そして
 やっぱり何も残せなかった=残せないのか。46歳、私は何も残せていない。それが宿命なのか。何も構築できない。それが運命なのか。常に中途半端なのが私の、…。
 だからこそ、ここで何ができるか試みてみたいと思う。こんな出来損ないの46歳がいたっていいではないか。ある意味では、出来損ないの絵画、出来損ないの小説、人でなしの音楽に憧憬し続ける疑似・ゴス人間なのだからさ。


007/手と膝
 手がベタベタする。手を洗っても洗っても、なんか手がベタベタする。ペタッとするというかネットリするというか、なんかベタベタする。原因は不明だ。というか年齢のせいか。加齢臭の一種なのか。それとも何かの病気か。そんな、…。
 相変わらず膝が痛い。特に最近は左膝が。自転車で通勤しているので運動不足ってことはあまりない。30歳過ぎた頃に両膝が痛いので近所の接骨院に行ったら、痩せ過ぎのため、膝の関節のクッションの役目を果たす脂肪が少ないから骨と骨が当たって痛いのだと、だから少し太りましょうって、いったいどうやったら膝の関節周りが太れるのか。あぁ、前途は多難だ。


008/同じ繰り返し
 いろいろな考え方や捉え方があるだろうが、やっぱりすべては同じ繰り返しでしかない。人間は生まれ生き死ぬ、その繰り返しに過ぎないと考えるからこそ余計かもしれないが。しかし、それでも毎日は面白くない。
 しかし、それはすべて自分に責任があるということだ。人生とは結局さまざまな選択肢の結果とさまざまな運の組み合わせにほかならないからだ。自分が満足していない人生なら、それはさまざまな選択肢の取り違えと運の善し悪し、その結果にほかならない。それがすべてだ。
 では、これからの私に何ができるのか。このブログがその新たな契機となるのか、ならないのか、すべては風だけが知っているだろう。もしくは浅見光彦だけが知っているだろう。私には何も分からない。何も理解できない。なんて、不器用な、なんて、不手際な、なんて、…。


009/遠くで汽笛を聞きながら
 そう、何もいいことがない、そう言ってもいいような。アリスというかベーヤンのフォーク・ロック・バラード「遠くで汽笛を聞きながら」は自分にとってもの凄いシンパシーを感じさせられる楽曲だ。東京で生まれ育ったから近くで汽笛なんか聞こえるわけがないのだけれど、そういう事実関係ではなくて、心象風景というか、私の嫌いな情緒というか、そういうもの、イメージの話だけれど。
 アリスの後期って、そういえば恐ろしい程ネガティブだ。「遠くで〜」もそうだが、「帰らざる日々」も。
 ソニック・ユースのアルバムを聴きながら、なぜかそんなことを思う秋の深夜だ。そういえば北村昌士が亡くなったらしい。ほんの一時期「フールズメイト」で手伝いしていて、彼とは何回か一緒に仕事したりご飯食べたり彼のマンションに泊めてもらったりした記憶がある。特に彼の書いた『キング・クリムゾン』が好きだった。今は手元にないが、きっと入手不可能だろう。彼の秘かな死、それは私の今とどうかぶるのだろう。彼には何も影響を与えることなどなかっただろう。私はいったい誰に影響を与えたというのか。コミュニケーション不全の自分に。
 北村の死、それは真に80年代が終焉したということではなかったか。彼の文章と彼の音楽の乖離は結局乖離したままだ。自分もいろいろなものが乖離したままではないのか。そして、記憶はどんどん欠落していく、いったい20代の自分にこんな現在を予測できただろうか。
 すべては風に吹かれている。私は風邪に冒されている。すべては風に、…。


010/新発売
 日本では新発売商法が王道である。なぜなら、新発売、リニューアル、デザイン一新が売れるからだ。パッケージに「新発売」とか「NEW」という言葉があるだけで売り上げが上がるらしいのだ。とは言っても自分も「新発売」とか「NEW」という言葉に弱いのは確かだけれど、だが、しかし、だ。新発売、リニューアルにこだわるあまり逆効果というのも多々あるのも事実。
 メーカーへの批判ではなく単なる一消費者としての感想なのだが、「一番搾り」は味を変えない方が美味しかったし、「モルツ」は私の微かな記憶では少なくても3回は味を変えているが、CMが野球シリーズになった時は美味しくなくなった。今は、天然水シリーズでいくらか良くなったが、でも初期の味のほうが「モルツ」としての味わいが濃厚だった。「新生」も3にヴァージョン・アップして美味しくなくなった。これを飲み続けたいのにメーカーの戦略で味が変わる、それは理解できるのだけれど、完成された味が壊れるのは納得が行かないのだ。とりあえずビールや雑種で例を出したけれど、それはビールや雑種に限ったことではない。いっそのこと味を変えるのなら、そのブランドを抹消してほしいとも思う。だから、当時は愛飲していたスポーツ飲料の「ウィリー」や「ポスト・ウォーター」は、だから潔いと言えるだろう。それらはどちらも存在さえしていない。一部の人々の微かな記憶にあるだけだ。
 完成されて定着した味は守ってほしい、それは消費者の我がままだろうか。
 たとえばパソコンのソフトも同様だ。しかも高額で長期間使うものだからたちが悪い。それもほぼ定期的にヴァージョン・アップする。ユーザーはたまったものではない。確かにイラストレーター8が9に上がったときは、透明効果に感動したが、マックというかパソコンのスペックによってはソフトが起動しない、起ち上がらないということは避けられない。しかもアップルはインテル・マックを打ち出し、最新ヴァージョンのアドビ・ソフトも不具合が。次期ヴァージョンCS3を待つしかないとか。なんかユーザーは踊らされているだけだ。
 私のパソコンというかアップルのiBook G4だが、壊れたらソフトをすべて有料でヴァージョン・アップしないといけないのが憂鬱だ。何か解せない、この現状だ。